木彫りの里上丹生
上丹生の木彫
その風土
Climate
琵琶湖の東北にただ一つ、東海道新幹線の米原駅がある。在来の東海道線と北陸線の接点でもある米原駅は、昔水運の港もあって同時に中山道と北国街道との接点として重要な水陸交通の要衝だったところ。
この米原駅から10キロ東に「木彫りの里、上丹生」がある。山が迫り冬の日照時間は3時間という。天平の昔から息長丹生真人という一族が住んでおり、古代渡来人による情報や技術が交流し、高度な文化圏を形成していた。
山間には、田畑はとても少なく産業としては山の木を選び昔から社寺や神輿、山車の彫り物を手掛けていた。
木彫の技と文様を今に伝える数少ない珍しいところである。
その歴史
history
起源は200年前、19世紀の初めに遡る。その頃上丹生に長次郎というすぐれた堂大工がいて、その次男上田勇助が14歳の時、同郷の川口七右衛門と彫刻修行のため京都へ連れ立った。
12年後、修行を終えて家に戻った勇介は、上丹生成光寺本堂の欄間に雲龍を、又、上丹生氏神の本殿彫刻(開き戸の菊と桐の紋に唐獅子牡丹他)を完成。
2代目勇介になって長浜の浜仏壇の彫を手掛け、一段と技術に磨きがかかり、仏壇のほかにも種々の彫刻ができる文字どおり木彫の里の基礎を築いた。
明治になると森曲水は名古屋大須観音堂、越前永平寺、東京本願寺の欄間を彫刻。
一方、大正15年にパリの万国美術工芸博覧会で曲水の弟森光次郎の作品が入賞。
第二次世界大戦後、杉の彫刻の表面を焼いて木目を活かした焼き杉彫刻などを村の職人は作るようになる。焼き杉の彫刻は輸出されていた時代もあり、狸、ガマ蛙、みみずくや蓑亀など人気が集まった。
仏壇づくりの里・上丹生
山あいに光る伝統の技
Traditional Japanese crafts
そもそもは、明治の中期にかけて勇介ー二代目が仏壇の彫り物を手掛けたことに始まり、同じころ木地師、飾金具師、塗師師、箔押し師など仏壇作りのための職人が誕生した。木彫だけではなく、上丹生は全国でも珍しく、いろいろな分野の伝統工芸の職人が住む村として成長。今なお仏壇づくりの里とも言われている。
上丹生が主として作る浜仏壇は、木地師から漆塗り、飾金具、彫刻、箔押し、蒔絵などから仕上げまで一貫して行い、世に仏壇七職といわれる。上丹生が取り組む仏壇づくりの特徴は、予算の規模に合わせ、また自分の趣向も入れて技術、材料、意匠まで世界に一つしかない「ウチの仏壇」を仕立ててくれる。